餓死にすることは、武士の恥じゃ

 大塚はこんなことを云いながら歩きだした。彼は今朝早くから谷から谷をあさっていたが、腰の袋に一羽の山鳥を獲っているだけで他に何も獲っていないので、何か一二疋好い獣を獲りたかった。兎は彼の眼から放れなかった。彼はもしやそこらあたりに隠れていはしないかと思って、注意しいしい歩いた。 大塚は谷の窪地の隅になった処へまで往った。山畑はそこでなくなって、それから勾配のきつい登り坂になるのであった。兎はとてもいないと思ったので、銃を元の通り肩に懸けて二三歩往った。と、思うと、彼の身体は不意に脚下の穴の中へ陥ちて往った。水の少いその山畑を作る人の掘ったものであろう、二丈余りある深い山井戸であった。大塚は驚いて微暗い穴の中を見廻した。幸いにしてこぼれ土のために水のある処は埋まってしまって、僅かに草鞋の端が濡れる位の水しか湧いていなかった。(古井戸へ陥ち込んだぞ、上へあがらねばならんが、あがれるかしら) 大塚は苔の生えた穴の周囲に注意したが、手掛りにするような処は見つからなかった。上の方はと見ると穴の入口にうっすらした陽の光があった。(とても、彼処《あすこ》までは出て往けない、それに人家が遠いから、いくら大声を立てたところで、聞きつけてやって来る者もない、こいつは困ったことになった、腰にはまだ一回分の握飯は持っておるが、とてもそんなことで命を支えられるはずのものでない、こうなるのも前世の約束ごとだろう、しかたがない、井戸の中で餓死に死ぬるは武士の恥じゃ、思い切って切腹しよう、餓死にすることは、武士の恥じゃ) 大塚は肩にしていた銃をおろし、土に背をもたし腕組みして考え込んだ。(ここで俺がこのまま切腹したとしたなら、家の女房や、小供はどうなるだろう) 彼はもう自殺をするものとして死後のことに就いて考えていた。考えているうちに何か不意に注意を促されたものがあった。彼は顔をあげて井戸の口の方を見た。井戸の口に赤い顔が見えた。(何人《たれ》か覗いておるぞ、人が来てくれたか、人が)

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